才能は非凡であるからこそ、才能となり、
平凡とは、みなと同じことをやること。
私には、子どもが3人いる。
三人とも、個性的で一人として同じタイプはいない。
上の子は、反発精神が高く、どうしてそう荒波を選んで、3倍以上の労力をかけてまで、力技で前進しようとするのかという正義感が人一倍強いアグレッシブタイプ。
真ん中の子は、川に入り魚を捕ったり、虫を捕ったりすることが好きで、授業中に、いきなり席を立って、教室にある水槽に向かい魚を触ったりしていて、国語がとても苦手な子。成績は一番下か下から数えたほうが早いから、自分に自信がなくて、いじける事が多いが、気持ちが優しく、相手を大事にしたいマイペースなノンアサーティブ。
一番下の子は、迷子になる事がこの上なく嫌いで、一緒に買い物に行った時など、手を引いて歩かないと迷子になるでしょうと私が教えさとされ叱られるけど、納得いく話が得意で、皆が最善になれるような答えを探しだしながら、自分が見えなくなる時があるアサーティブな子
それぞれに突出した個性が強く、そこから色んなコンプレックスを持ち、日々過ごす子どもたち。
私は、真ん中の子には、自分の道をまっすぐ歩くことができるので、人がどういおうと気にならない行動をするから天才。上と下は、頑張った分、自分に返ってくることが手ごたえになる、人と比較しながら自分の立ち位置を把握できる秀才なんだよと教えていた。
私も、個性的な幼少期を過ごし、文字が反対に見ていていた時期では、日本語の理解ができない子だったから、子供たちの気持ちがわかる。
だからこそ、どの子にも今の経験は大切で、苦悩があるから成長も早いと確信があった。そして、自分自身に対しては、子供の才能を伸ばすためには、自分の考えを押し付け、自分の思い通りの都合がいい子どもを求めたい、未熟で短絡的な自分の考えに問題があると感じていた。
私の考える親の役割とは、子どもが親がいなくとも、立派に一人で地に足つけて、人と協調しながら世を渡り生き抜くための、困難に打ち勝つ能力を身に着けることであり、その心を育てる支援をすることだと考えている。
私も、子育てで悩んでいなかったわけではないけれど、そういった考えを軸に持ち、日常的に必要な道徳やモラルだけはしっかり教えながら、私は子供の才能を信じた。
真ん中の子が高校になったとき、農業高校を選んでいた。
理由は、勉強よりも草木や生き物を扱う学校だからという理由だったけれど、今までなかったテストでは全国に行く、書いた絵や作文は新聞に掲載される、東京の大学の推薦をもらえるだろうという話まで上がっており、高校生活でいきなりその才能は開花した。
本人いわく、テストでは、害虫のことや草木の名前や季節、大きさも色も形も、日常に遊んでいた中から覚えたもので、特に勉強しなくても分かるというもので、当たり前のことでしかなかった。
本当の勉強とは、勉強しようと思って形式や概論だけで得られるものではなく、きちんと意味があり、その意味を楽しさややりがいの中から、日々無意識に得ている、そんなもので、その日々無意識に得ているものが才能なのではないだろうか?
今の教育は、親の希望もあり、出来るだけみんな同じであることが前提になってしまい、子どもが親の言う事を聞き、望んだ行動をすることができる子がいい子になっている事が多いので、子たちにの持つ可能性はどこに行ってしまったのか見えなくなってしまっているのではないだろうか?
まるで、可憐な花を咲かせる草花に、大樹になれと違った方向で育ている親のエゴを押し付けていると感じる。
違った育て方で、その生命を枯らさない事を願うばかり。
もちろん、私も例外ではない。
やはり、才能は、非凡であるからこそ、全体の中から突出し、協調性がないものでもある。
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