みんな同じがいい、数字や結果を平等にするための教育に私は疑問を感じる
確かに平等という名のもとに義務教育がある。
だけれども、4月生まれの子どもと翌年の2月や3月生まれの子の場合、生まれた時期が一年近く離れているため、成長スピードも理解度も違う。
そこは、もともとのラインが違う。
ましてや、得意不得意な分野だって、理解度だって大きく差が出る。
そうなってくると、教育の論点からいうと結果を等しくするという平等な教育には、成長スピードが違うし、得意不得意分野も様々な子供たちを1年間というくくりで行うので、先生も力技が必要になる。
テストの点数や通知表などのほとんどが、数字で子供たちの教育習得度合として活用されているのだけれども、このことにも疑問。
なぜなら、私もそうだったけれども、記憶力が良い子が真に理解しているとは限らない。
また、生き物が好きな子が、数字が得意だったりすることも少ない。
日本の教育は、みんな同じ結果、平等な教育を目指すので、得意なことはそのままに、出来ない事が出来るようになるために多くの時間を使う。
では、逆に出来る子はどうだろうか?
マイナスの能力をゼロにし、+1にするには、2倍の労力がかかる。
ゼロの能力を+1にするには、マイナスを+1にする労力の半分で済む上、マイナスを+1にするよりも結果の出方も早く、成長したという実感だって大きい。
更に、本人もできる自分を意識するので、自信がある子どもに育つ。
しかし、自信がある子どもは、個性が強い子どもになり、変わり者扱いされたり、普通と違うという事で、周囲から浮いたり、うとまれることもある。
私は、中学のとき、将来何になりたいか、どんなことがしたいかという「目標」や「やりたいこと」がなく、何となく高校を受験した。
高校を選ぶ理由も、「制服が気に入るか」「苦手な人がいかない」「プールがない」「新設校」などというところで、鉛筆を転がして高校を決めた。
何故、海外では中学生が発明をして認められるのだろうか?
得意分野や偏った知識だけでも飛び級ができるのだろうか?
日本人の子どもの多くは、高校生活にやりたいことがないんだろうか?
私には、そこが日本の平等という名のものとに、数字で子どもの習得状況をはかり、教育ができているか否かを目安にしている、教育の問題ではないだろうかと思う。
条件を等しくする公平な教育が成り立っていたら、でこぼこしていて色んな個性が生まれるけれど、才能は伸びていき開花される。
人は、植物のどんな花が咲くか事前に知ることができるし、どういう時期に種をまき、どこで育て、どんな栄養を与えたら、きれいな花が咲くかわかる。また、素人であれば、調べたり、専門家に聞いて、花を咲かせることができる。
でも、同じ人に対しては、どういう時期に、どんな教育という栄養を与え、どこで育てたら、どんな才能という花が開くかという事はわかっているのだろうか。
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