ここ数年、メンタルが弱くなったなぁと思うことが増えた。
自己申告の鬱もそう。
でも、そう思いながら、最近は少し違っていて、
それって本当にメンタルが弱くなったんだろうか?
と疑問に思うようになってきた。
なぜなら、自己申告の鬱病にしても、メンヘラにしても、
「そうまでして、仕事をしなければならない理由が分からない」
また、仕事の楽しさが見えないうちに、ゴールの見えない山登りをあきらめていると思うようになった。
ゴールの見えない山登りほど、辛くて苦しくて、投げ出したくなる。
でも、一度頂上が見えてしまえば、とても楽、また後ろを振り返ると、上ったなぁという達成感も得られるはず。
だからこそ、人は、自分自身が「楽しさ」「生きがい」「達成感」を持つような、昇華の経験を多く持っている必要があるかもしれない。
今の子たちは、誰からか褒められたからうれしい。更に誉められたいから頑張るという、依存型の行為が多い。
自分の行動を自分で決めていなくて、他人が決めた行動に動き評価をもらう事に慣れているようで、褒められた内容以上のものを求め、出来ない時には他人から認められない自分を否定している。
私は、小学校の5年生の時に、鍛錬遠足で達成感と言うものを経験した。
行きはつらくて、苦しくて、何度も途中休憩が入ったが、まだ到着しないのかと思いながら、連れていかれるように上るしかなかった。
しかし、帰りはその真逆で、到着も早く楽だった。
その不思議な感覚がなんだったのか理解ができず、11クラスの学校の先生全てに「山登りはつらかったのに帰りはとても楽だった、どうしてですか?」と聞いてみたけれど、
「坂道だったからじゃない?」
「リュックが軽くなったからじゃない?」
「お弁当食べて元気がでたのよ」などと納得する答えは出なかった。
1週間ぐらいたって、庭木の剪定をしていた校長先生が納得する答えをくれた。
「そりゃ、帰り道が分かったからだよ。行きがけは、どこが終わりかわからなかったから、いつまでも続く上り坂がつらかった。でも帰りは、ここらへんだったら、学校まで後どれくらいだと、自分なりわかったんじゃないかな?」
私の頭は「そうだ!」とすっと腑に落ち、瞬時に大きな満足感と達成感、自己納得と確信を得た。
そして、校長先生が自分の気持ちを言葉で代弁した事に感動さえ覚え、心が震えたのは今も鮮明。
そういった、達成感は、苦しいと思えば思うほど、大きなものであって、人にはそういった経験が必要な生き物なんだと思う。
だからこそ、メンタルが弱いのではなく、自己納得をし、達成感を味わう経験少ないだけなんだと思うようになった。
あの時に、
教育は、困難に打ち勝つ能力を養うもの。
言葉とは、気持ちを共有するものと理解できた。
そして、私の役割は、悩みを解き放って開き放ち、達成感や希望に変えられる手伝いをすること。
受講者が、トレーニングを通じて達成感を描くには、どうしたらいいか。
私には、今以上の自己研鑽が必要。
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