現在、怒りが頂点に達しています。
それも、売名行為と名誉棄損の状況に腹を立てているところ。
下記の画像をご覧ください。
Wordpressを使って、私の名前がディスクリプションに掲載されています。
ですが、このサイトは誘導して性的動画を配信しているサイト。
それも、開くと詐欺とスパムで乗っ取りもある悪質サイト。
名前を語られている出版社、中国人の方に対しても失礼極まりない。
検索結果に映る“私”の名前。
その文面は、私が書いたものではありません。
そのリンク先は、私が関わった場ではありません。
それなのに、検索文面の下にあるディスクリプションには“私の名前や屋号”がある。
しかもその先には、性的なコンテンツへの誘導が仕掛けられている悪質さ。
文章をつないで勝手に模造して、さもそういった文章があるように見せかけた虚偽。
強い怒りが湧きました。
「売名行為と名誉棄損」です。
私にとって名前は、ただのラベルではない。
それは、場の温度であり、関係性の入口であり、実践の記憶。
だからこそ、名前が無断で使われたとき、
人の実績を悪用して、自分に有意なようにしようとする短絡的な行為に腹が立つ。
検索結果に映る“私”は、誰の語りによって構成されているのか。
語りの責任と、言葉の居場所について考える。
“私”は、他者の語りの中にも分布している。
それが、検索結果という“他者の視点”に映ったとき、私の輪郭は変容する。
私は問い直したい。
「その語りは、本当に私の実践を映しているか?」
「その言葉は、場の温度を持っているか?」
「その名前の使い方は、関係性への敬意があるか?」
怒りを問いに変えることで、場を守る実践が始まる。
検索結果に映る“私”が、本当に“私”であるために。
私は、語りの責任を引き受けながら、言葉の場を育てていく。
それは、誰かを責めるためではなく、場の尊厳を守るための実践を続けます。
もちろん、色々な方に相談しているところです。
検索結果に映る“私”は、必ずしも私が語った“私”ではない。
名前や言葉が無断で使われることで、場の尊厳が揺らぐ。
だからこそ、私は問い直す。
誰が語っているのか。
その語りは、実践の温度を持っているか。
私は、怒りを問いに変えながら、言葉の居場所を守り続ける。
それが、場づくりの実践者としての責任だと思う。
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